今日はお好み焼きにしようか。
「お好みやったからあかん!お好み!お好みやったからあかん!」
帰宅し、お風呂に入っていると、外から母の声が聞こえた。きっと誰かからご飯のお誘いがあったのだろう。よくあることである。
午後4時頃、母からラインが入った。
「今日、お好み焼きしよか」
「外ですか?家ですか?」
お好み焼きを家で作ることは最近はほぼない。外食が9割だ。このご時世なので一応聞いておこうかと思ったけれど、返事は待てどもこなかった。よくあることである。そんな今日の晩ご飯はお好み焼きだ。
「関西人はお好み焼きをおかずに白ごはんを食べるの?」
そんなことは誰にも聞かれたことはないが、私はお好み焼きはお好み焼きとして食べたい。お好み焼きを食べる時は白ごはんは食べない。
食べたい人は白ごはんを食べればいい。だが私はそうじゃない。お好み焼きと白ごはんというセットよりも、お好み焼きだけの方が好みなのだ。美味しく食べられるのだ。だからといって、お好み焼きと白ごはんをセットで食べたい人を否定はしない。人それぞれである。
私はコーヒーをよく飲むが、ご飯を食べている時は可能な限りお茶かお水を飲みたい。外食した際にコーヒーをおともにしてご飯を食べる時があるが、その時はちょっとソワソワする。お水を頼んでしまう。混ざって欲しくないのだ。それぞれの良さを最高の形で私が受け入れられていない気がするのだ。
それは申し訳ない。
「あらあら、ごめんねえ」
と思う。それに私自身が「最高」と思える状態が良い。それが一番望ましいと考えている。誰かにとっては「え?!」となるような組み合わせでも、私にとっては最強だったりするし、逆も然りである。
そのことはずっと、忘れないようにしたい。